――ヴュルテンベルク領・カールスルーエ―― 【オスカー】 「あーあ……やっと終わった。座学は眠くてたまらないな」 【マリウス】 「オスカーが悪いんだよ、概論の講義を聞いてないから」 【オスカー】 「試験に出るんじゃなきゃこんな授業受けないさ。 兄さんも言ってたぜ? この学校の授業は質が落ちたって。 こんなことなら都会の学校に行きゃよかったぜ」 【マリウス】 「でも、ここはアルザスに隣接してるから 戦略的には重要な場所なんだ。先生が言ってた」 【オスカー】 「有事のために、ってやつか。 けど、一番上に生まれた奴は大抵ベルリンに行ってるよなあ……。 お前ももったいないことしたよな、エリ」 【エリ】 「えっ?」 【エリ】 「あ……ごめん、聞いてなかった。なんだっけ」 【オスカー】 「ベルリンからこんなとこ来るなんて災難だって言ったんだよ。 どうしたんだ? ぼーっとして」 【エリ】 「なんでもない。 災難だなんて、そんなこと思ってないよ。 自分が来たくて来たんだから」 【マリウス】 「そういえば、前にもそんなこと言ってたね」 【オスカー】 「前から思ってたけど、よく許してもらえたよなあ? 家もだけど、学校もさ」 【エリ】 「……そうだね。寮外からの通学も初めてみたいだし」 【マリウス】 「クリストフ様が口添えしてくれたの?」 【エリ】 「そうかもしれない。 兄様も最初はいい顔しなかったけどね」 五年前、自分がヴュルテンベルクへ来ることになった経緯は、 尋ねられてもなかなか答えにくい。 エリと、この国の王女であるアレクシアとの交友自体、 ほとんど人に知られていないからだ。 【エリ】 (……本当なら、隠すことじゃないんだけど) これまで男子の入学しか前例のなかった士官予備学校に通っている、 それだけでも何かと噂になりがちだ。 これ以上人目につくようなことは、できるだけ避けたかった。 何がきっかけでアレクシアに迷惑をかけてしまうかわからない。 【オスカー】 「ま、ここの暮らしももうじき終わるしな。 お前はいつ卒業してもいいんだし」 【マリウス】 「エリはもう、ほとんど終わってるもんね。課題も試験も。 ベルリンの陸軍大学へ行くんだよね?」 【エリ】 「ん……」 【マリウス】 「……?」 そのつもりだった。つい昨日までは。 予備学校を終えたら、ベルリンに戻る。 それは、入学前にクリストフと交わした約束の一つだった。 でも、今はそれどころじゃない。 昨日から頭は例のことで一杯だった。 【エリ】 (アレクシア……) ……別れ際のことを、今になって思い出す。 驚いて、自分の方が動揺して。 相手の気持ちを考える余裕もなかった。あの時は。 【エリ】 (……一番大変なのは、アレクシアなのに) あの時の、アレクシアの顔。 罪の意識に苛まれているような。 【エリ】 (私だ。あんな顔をさせたのは……) 辛そうで――何か言いたげで、でも言えない、 そんな表情がずっと頭を離れない。 アレクシアにまつわる、王女という立場。 その制約や葛藤は、どれだけ身近にいても自分には知り得ない。 昨日は、そんなことすら考えられなかった。 ろくに話を聞きもせずに飛び出して。 【エリ】 「……あのね」 【マリウス】 「うん?」 【エリ】 「私の……知り合いの話なんだけど。 同じくらいの年の女の子で……もうちょっといい家の子で」 【オスカー】 「いい家って、貴族とか?」 【エリ】 「うん、まあ。 その子が今度、よその国に行くことになって。少し遠くの」 【マリウス】 「よその国って、なにしに?」 【エリ】 「詳しいことはわからないんだ。 ただ、偉い人に言われて断ることもできないみたいで」 【エリ】 「……向こうはもう、その子が来ること前提で動いてるって。 これって、どういうことだと思う?」 【オスカー】 「その子ってのは、あれか? なんか特別な技能を持ってるとか」 【エリ】 「技能、っていうと……どうなんだろう。 頭のいい子ではあるけど。その……美人だし」 【オスカー】 「そういうことじゃなくて……。 あー、だったらそりゃあれだろ。多分」 【オスカー】 「嫁入りだろ? どう考えても。 姉さんから聞いたことあるぜ、そういうの」 【エリ】 「え……」 嫁入り――結婚。アレクシアが。 【エリ】 「そ、そうなの?」 【オスカー】 「ああ。避暑に行くだの観劇に行くだの連れてかれて、 行った先で婚約者候補に引き合わされたとか」 【エリ】 「でも、そんなことで国外まで……行く? 普通」 【マリウス】 「わからないけど…… 身分のある人だと、そういうこともあるのかな」 【エリ】 「…………」 ……本当に、言われて初めて気がついた。 むしろ、どうしてそれに思い至らなかったのか。 【エリ】 (結婚……) もう一度、昨日のアレクシアの言葉を思い出す。 ――ヴュルテンベルクは、今はドイツの一構成国でしかない。 盟主国には逆らえないの。 ――スィナン殿は、アナトリア外務省の方。 恐らく決定事項として進んでいる。 不意に見知らぬ冷静さをまとう声。 王女の顔をしている時、 アレクシアはエリを前にしていてもあんな風に言葉を紡ぐ。 そうして、本当の気持ちを隠してしまう。 【エリ】 (言いたくても、言えなかったのかもしれない。 私が驚いたり怒ったりしたから……) 【オスカー】 「おい、まさかお前のことじゃないよな、それ」 【マリウス】 「ええっ!? エリ、結婚するの」 【エリ】 「し、しないよ! 私のことじゃないから」 【エリ】 「私のことじゃ……ないけど……」 【エリ】 「…………」

【ヒルデ】 「ディートリヒ様? そういえば、近頃はよくベルリンにお戻りになってるようね」 【エリ】 「そうなのですか?」 【ヒルデ】 「ええ。あなたが最後にお会いしたのはいつ?」 【エリ】 「……二年近く……前だと思います。 そのあとは、手紙のやり取りくらいで」 【ヒルデ】 「ああ、それくらいからじゃないかしら。 休暇に関わらずいらしてるのは」 【エリ】 「……そうでしたか。知りませんでした」 叔母のヒルデは、 まるで近所に住む人の話でもするように言う。 彼女が社交界の噂に通じているのは知っていたが、 普段国外にいる人のことまで把握しているとは思わなかった。 【エリ】 (ディートリヒ……最近はよくドイツにきてたんだ) 母方の叔母夫婦が住まうこの家は、 ここカールスルーエへ移って以来のエリの下宿先だ。 ヒルデにはここ五年ほど世話になっているが、 その間、彼女がベルリンへ出向いたことなど一度もない。 【エリ】 「詳しいのですね、叔母様は」 【ヒルデ】 「だってねえ、ここじゃお喋りくらいしかすることがなくて。 ディートリヒ様のお噂はよく耳にするの」 【ヒルデ】 「ご結婚もこれからですし。 どんな花嫁さんを迎えるのか、みんな気になるのよ」 【エリ】 「!」 【ヒルデ】 「なんといっても、あのご容姿ですからねえ。 若いお嬢さんでなくても何かと話の種になるものよ」 【エリ】 「……そう、ですか」 アレクシアに命じられた、突然の国外訪問。 結婚、という現実味のある可能性に気がつくと、 またも新たな疑問がわいてきた。 不思議に思う点はいくつもあるが、 特にわからなかったのが、彼の存在だ。 【エリ】 (ディートリヒ……) ディートリヒ・シュトルツ。彼との出会いは、 アレクシアとともにベルリンにいた時代までさかのぼる。 その頃、兄のクリストフはまだ学生で、 新しくできた友人だと紹介されたのが最初の出会いだった。 【エリ】 (あの時は、すごく大人みたいに思ってたけど……。 よく考えたら、私たちと十歳も離れてないんだ) まだほんの子供だった自分は、 西洋人の彼がなぜか東洋の国に住み、 休暇の終わりには帰っていくのを不思議に思っていた。 【エリ】 (アナトリアには……いつからいたんだっけ) 兄からは、大学の夏季休暇で帰省した折に知り合い、 親しくなったと聞いたことがある。 だとすると、それ以前―― 十年以上はあちらで過ごしているということか。 【エリ】 (そう考えると、補佐役は不自然ってわけじゃない。 まして大使館勤めになったなら……) 【ヒルデ】 「あなたも、お手紙など差し上げているのでしょ?」 【エリ】 「はい。ただ、頻繁でもないですし。挨拶程度で」 連絡が途絶えることはなかったものの、 ディートリヒはあくまで兄の友人、という認識だった。 エリ自身が親しかったというよりは、 クリストフの妹として相手をしてくれた、というのが正しいだろう。 そして、その頃は大抵アレクシアも一緒にいたはずだ。 【エリ】 (……本当に? アレクシアと……ディートリヒが) 確かに、彼らには面識があるはずだ。 子供も集まる夏休みの社交場で、二人が話をしていた記憶もある。 ……そう、記憶がある。 幼い頃から際だった美しさで視線を集めるアレクシアを前にしても、 他の男の人たちのように態度を変えたりはしなかった。 そのことが、印象的だった。 どちらかというと気難しいクリストフが、 唯一心から打ち解けていたようであることも。 【エリ】 「…………」 アレクシアが東洋の国へ行く。その土地で結婚する。 そんな可能性があると聞いた時には、驚いたし反発もした。 けれども、相手がどこの誰ともわからないよりは 見知った人の方がいいのだろうか。 【エリ】 (……どうなんだろう)