【エリ】 (……いや。アレクシアの気持ちが大事なんだ) 個人の感情だけで結婚が叶うとは思わない。 ましてや、アレクシアには王女という立場がある。 【エリ】 (でも、嫌だ。アレクシアが好きでもない人の所に行くなんて) 自分だって理屈がわからないわけじゃない。 だとしても、アレクシアの運命に関わることを 簡単に受け入れることはできなかった。 【ヒルデ】 「あなたも卒業したらベルリンへ戻るのでしょう。 近いうちにお会いするかもしれなくてよ」 【エリ】 「そう……ですね、いつかは」 【ヒルデ】 「それと。あなたもそろそろお嫁入りのことを考えないと。 お兄様が許してることを横からどうこう言えないけど、 きっと心配されているはずよ」 【エリ】 「……ええ。はい」 今はそれどころじゃない。 そうも思ったが、取りあえず頷いておく。 長いこと世話になってしまった叔母は、 エリを実の娘のように可愛がってくれている。 口ばかりでなく、心から心配してくれているのだろう。 【エリ】 (アレクシアは……) ――昨日のアレクシアの顔。何度も思い出す。 気がつくと、あの時のことを考えてしまっている。 【エリ】 (……アレクシアは、選んだんだ。自分自身で) 本心はどうあれ、嫌々従うような素振りは見せなかった。 【エリ】 (アレクシアが決めたことなんだ。アナトリアへ行くって) それは、自分には止められない。 アレクシアの持つ王女の意志は強く、 エリの言葉くらいで変えられるようなものじゃない。 【エリ】 (でも……) それで、本当にアレクシアは幸せになれるのだろうか。

【エリ】 「…………」 校舎の中、生徒らの行き交う棟から遠く離れた 小さな室内修練場。 そこには自分ともう一人の姿しかない。 使われるのは主に屋外の運動場で、 この部屋は存在すら知らない者もいるらしい。 がらんとした広間の中央、床の上に膝を折る格好で座る。 そんな自分を、教師のフリッツが見つめている。 鋭い目は片時もこちらから離れない。 視線を意識しつつ、頭の中に これまで何度も繰り返した挙動を思い描く。 柄に手をかける。 ゆっくりと膝立ちになり、刀を抜く。 併せて鞘は前へ押し出し、刀身は三分の一ほど残しておく。 【フリッツ】 「よく敵を見て」 その声に自分が何も見ていなかったことに気がついた。 少し離れた前方に、見知らぬ誰かの像を結ぶ。 実態のない「敵」を思い描くことは難しい。 けれども、エリがそれを忘れていると フリッツにはすぐにわかってしまう。 【エリ】 (敵……) それはいつでもぼんやりしていて、うまく目の前に現れない。 【エリ】 (敵って……なんだろう) 少なからず戦う術を学び、身につけてきても、わからない。 自分を害する者。共存しえない者。 恨み。憎しみ。そんなものを抱くもの。 無力化しなければこちらが危険にさらされるもの。 そんなものが、これまでどこに存在しただろう。 【エリ】 「ふ……っ」 右足を踏み出し、一瞬で鞘を引く。 弾き出すように刃を抜くと、 敵の右から左肩へ抜けるように薙いだ。 だが――余計な思考が邪魔をした。 抜刀の寸前、切っ先にわずかに引っかかる感触がある。 【エリ】 (あっ……) そのまま上段に構え、真上から振り下ろす。 これも十分ではなかった。 空気を斬る音がいつもと違う。 ……その後も、あらゆる動作を終えるたび 仕損じた感触が積っていく。 十もこなさないうちに気力が萎え、切っ先を床へ下ろした。 これまで学んできたことが急に体から抜けてしまったようだった。 【エリ】 「……すみません。始めからやらせてください」 【フリッツ】 「体調はいいようだが。寸前で集中が途切れるな」 フリッツの言う通りだった。 ふとした隙に意識がそれ、注意力が長持ちしない。 【フリッツ】 「考えごとかね?」 【エリ】 「…………」 普段、抜き身の刀に触れる時、 頭の中は自然と何もない状態に近くなる。 なのに、今日はどうしてもだめだった。 左の親指の付け根、薄皮一枚ほど裂かれた傷を擦り 時間を割いてくれている相手にもう一度頭を下げる。 【フリッツ】 「休憩するかね。まだ大丈夫だろう」 そう言って歩いていくと、フリッツは自分から壁際に座ってみせた。 エリも刀を納め、隣に腰を下ろす。 視線の高さが変わり、目に映るものも変わってくる。 いつものことながら床に座るというのは不思議な感覚だ。 【フリッツ】 「君は何かあるとすぐにわかるな。 顔を見てもそうだが、刀を抜くと覿面だ」 【エリ】 「すみません、ちょっと……切り替えられなくて」 【フリッツ】 「そんな時もある。 できない時は無理に振らないのも大事だな」 かつてのプロイセン大帝と同じ名が気に入りだと言う紳士、 士官予備学校の校長フリッツは、 ここでの生活を支えてくれる大切な協力者だ。 前例のない女生徒の入学を許可してくれた人物で、 加えて、この刀という武具を手にし 鍛錬に至る理由となった人でもある。 ――いま手にしている刀は、元は父の書斎の装飾品だった。 駐在武官だったエリの父が 東洋へ赴いた際に持ち帰ったものらしく、 持ち主自身、抜いたことはほとんどなかったようだ。 エリもその「壁飾り」を特に意識してはいなかった。 亡くなった父母の形見として、 なぜか自分の元へやってきたのがすべての始まりだった。 普通なら、どう考えても持て余す代物だろう。 自分自身、形見として以上の思い入れはなかったはずだ。 それが本来の用途を取り戻すことになったのは、 入学時、同じものを校長室で見かけたのがきっかけだった。 陸軍大学にいた頃、留学生の日本人に 一風変わった剣術を習ったというフリッツは、 その場でエリを一番の弟子にしてくれたのだった。 【フリッツ】 「話してみないか? 君がよければだが」 そんな理由もあり、 フリッツは教師らの中でも特に身近な存在だ。 身につけた知識や技を教えたがる師匠に付き合ううちに、 こんな具合に相談に乗ってもらうことも多くなった。 【エリ】 「えっと……」 【フリッツ】 「大丈夫だ。お兄様には内緒にしておいてやる」 【エリ】 「…………」 【エリ】 「……仮定の話、なのですが」 【フリッツ】 「うん?」 【エリ】 「一度学校を離れたら……復学は難しいでしょうか」 そこまで口にしたところで、 無意識に考えていたことに気づかされる。 何か、とんでもないことを考えている。 誰の賛同も得ず、自分の気持ちすら確かめていないのに。 【フリッツ】 「……これはまた。思った以上に大きな話だな」 【エリ】 「す、すみません。忘れてください」 【フリッツ】 「いやいや、いいさ。 休学ねえ……君は単位もほとんど取り終えているだろう。 語学が残ってるんだったかな」 【エリ】 「ラテン語とフランス語は終えています。あとは英語が」 【フリッツ】 「そのくらいなら卒業扱いにしてもいいくらいだが。 どうした、どこぞの部隊にでも誘われたか」 【エリ】 「いえ、そんなことではなくて。 ただその……少しだけ、ここを離れることは可能だろうかと」 思いつくまま口にするうち、だんだんと頭が垂れてくる。 ヴュルテンベルクへ来てからのこの五年、 フリッツにはどれだけ面倒をかけてきたかわからない。 なのに、こんな所で道をそれるような真似をしては 失望させてしまうのではないか。 【フリッツ】 「何か用事でもできたか。今でなければだめなのか?」 【エリ】 「……はい」 【フリッツ】 「そうか……」 【フリッツ】 「ふむ。だったら仕方ない。 別の道を見つけたならそれもいいし、 再び戻る機会があるなら、それもいい」 【エリ】 「そんなことでは……ご迷惑になるのでは」 【フリッツ】 「目的が変わることもある。迷うこともな」 【フリッツ】 「現に今、君には別の道が見えている。 人間、生きていれば岐路に立つことはいくらでもあるだろう」 【エリ】 「先生……」


フリッツの言葉に、 少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。 人生の岐路。 もしかすると、今がその時かもしれない。 横路にそれることにはなるだろう。 けれども、それは必ずしも目的を違えることじゃない。 【エリ】 (私の、目的……) 士官予備学校に入ること。陸軍大学へ進むこと。 刀という武器を手に取ったこと。 それは目的の終わりじゃない。 それを得て、守りたいものがあるからだ。 【エリ】 (……そうだ。間違っちゃだめだ) 【フリッツ】 「本心を言うなら、君がいなくなるのは寂しいさ。 せっかくできた唯一の弟子だしな」 【フリッツ】 「それだけじゃない。 女性士官も今は貴族の名誉職がせいぜいだが、 君の生き方はきっと同じ思いを持つ者の支えになる」 【フリッツ】 「だが、ここでない場所に得るものがあるなら仕方ない。 それを得て戻ってくるならそれでいい。 ……もちろん、君が望むならだが?」 【エリ】 「…………」 いいのだろうか。そんな我が儘を言って。 自分が人とは少しだけ異なる生き方をしていること、 そのことが兄や周囲の人たちの 悩みの種になっていることは知っている。 【エリ】 (……これ以上、望んでいいんだろうか) アレクシアの側にいたい。彼女を守りたい。 まだ何者でもない身でこんなことを思うなんて、 人に知られれば笑われてしまうだろう。 そう思う一方、踏み出せない体から抜け出すように まだ小さな意志が前へ進み始めている。 アレクシアの持つ、王女の意志。 アレクシア自身の意志すら凌駕するそれは、 エリがどれだけ懇願してもきっと曲がることはない。 【エリ】 (だったら、私は……) できることは、限られている。 自分の力で、変えられるもの。 それは、ただ一つ――自分自身しかないのだから。