【パトリツィア】 「……そうでしたか。 お話は聞いておりましたが……なんとも急な」 【パトリツィア】 「今月末となると……ご出立まで二十日ほど、ですか。 なぜそれほどまでお急ぎになるのでしょう」 【アレクシア】 「晩餐会があるのです。向こうへ着いた翌日に」 【アレクシア】 「きっとお披露目には都合がいいのでしょう。 多くの方の集まる会とのことですから」 【パトリツィア】 「まあ……」 目の前の婦人が眉をひそめるのに、思い直して姿勢を正す。 親しい相手を前につい愚痴めいた声が出てしまった。 アレクシアよりひと回りほど年上の家庭教師、 パトリツィア・グレーデン夫人とは ヴュルテンベルクへ戻って以来の付き合いになる。 父は変わらず病床にあり、 思うように外出もできない自分にとって、 パトリツィアはさまざまなことを教えてくれる貴重な存在だった。 【アレクシア】 「晩餐会そのものは嫌ではないのです。 いろいろな方にお目にかかれるのは有難いので」 【アレクシア】 「何もわからない状態ではありますが……。 だからこそ人とのご縁は大切でしょう」 【パトリツィア】 「そうですか……。 殿下がご納得されているならいいのですが」 そう言いつつ、パトリツィアは まだ何か言いたげな口を自ら塞ぐようにカップを口元へ運ぶ。 今回の出来事にはっきり、おかしい、と言ってくれるのは エリの他にはこの人くらいだと思っていた。 【パトリツィア】 「そのお話だったのですね。本日は」 【アレクシア】 「ええ。あなたの考えも聞きたくて。 私はもう客観的には見られないので」 【パトリツィア】 「バクマイスター卿は……なぜ殿下をご推挙なさったのでしょう。 妹君のご友人と知りながら」 【アレクシア】 「私の名を挙げたのが誰かはわからないのです。 そこは気にしても仕方ないと思っていて」 【パトリツィア】 「ですが、エルフリーデ様が黙っていないことは 卿もわかっておられたはず。 失礼ですが……あまり段取りがいいとは言えないような」 【アレクシア】 「……そうね」 ――エリにとって、唯一の肉親でもある青年。 クリストフ・バクマイスター。 彼についての記憶が最も鮮明なのは、まだベルリンにいた頃だ。 先日も顔を合わせたばかりなのに、 なぜか当時の面影ばかりがよみがえる。 幼い頃からの知り合いではあるものの、 彼の思考は今一つ理解しきれない。 少しばかり偏屈かもしれない、と思うものの 変わり者というほどでもない。 妹であるエリを誰より大切にしていることもわかる。 けれども、エリと自分の十年以上も続く関係、 その妹への思い入れの強さを思うと、 彼と自分のごく真っ当な距離感をむしろ不思議に思うこともあった。 【アレクシア】 「それより、今はアナトリアのことを知りたいのです。 なんでもいいの。聞かせてくれますか」 【パトリツィア】 「そうですね……私も詳しくは知らなくて。 噂程度に聞いていただけると有難いのですが……」 そう前置きし、パトリツィアは美しい指を顎に押しあてて話し出す。 【パトリツィア】 「アナトリアは、ドイツ以上に イギリス・フランス両国との繋がりが強固です」 【パトリツィア】 「歴史的にも関係が深く、 基本的には友好国と言えるのですが…… 近年は数々の要因から予断を許さない状況になっています」 【パトリツィア】 「ただ、共通して言えるのは 両国共に多大な借款があるということです。 つまり、アナトリアは英仏に途方もない額の借金をしている」 【パトリツィア】 「現皇帝陛下が即位なさった時点で、 国家歳出の多くがこれらの返済にあてられています。 今のかの国が英仏の強い影響下にあるのはそのためです」 【パトリツィア】 「そのような背景のある中、 ドイツはあえてアナトリアと親交を深めたいと考えている。 これもまた事実です」 【パトリツィア】 「その理由は……一言では申せません。 周辺国との均衡維持、資本投資…… このたびのご渡航、多分に政治的意図の強いものであるのかと」 【アレクシア】 「ええ。わかっています」 慎重に言葉を選ぶパトリツィアに、頷きつつ返す。 これまで特別な思い入れもなかった、馴染みのない土地。 異なる神を信じる東洋の国。 計り知れない謎めいたかの地を、 地図上の位置とわずかな知識から思い描く。 ――東西にまたがり存在する巨大な帝国、アナトリア。 東はペルシャ湾の沿岸、 西は地中海を囲み、ジブラルタルの目先まで。 ハンガリーを呑み込み、フランスの国境までも押し迫った。 数百年もの間、それはヨーロッパ全土にとって 恐るべき脅威だった。 ……だが、かつて畏怖された大帝国は、 今は昔の存在と言える。 十八世紀初頭、初めて西洋に領地を割譲して以来、 アナトリアは東西の狭間でゆっくりと力を失い、 干からびる水棲生物のようにその国境線を縮めていく。 【アレクシア】 (……それでも、ドイツには同朋となり得るのだわ) 男性たちは、やや言葉を飾り過ぎる嫌いがある。 国力のため。戦時のため。 そう言われる方が自分には納得がいく。 だからか、パトリツィアの言葉は 改めて自分の置かれた状況を見直させてくれた。 【アレクシア】 「もう少し聞きたいのですが」 【パトリツィア】 「はい」 【アレクシア】 「あちらにいらした女性とお会いしたことはありますか。 アナトリアでは……西洋婦人はどのように暮らしているのでしょう」 【パトリツィア】 「知り合いと言えるほどのものはおりませんの。 ですが、これも噂なら耳にします」 【パトリツィア】 「……アナトリアは、女性の立場の非常に弱い国であると。 西洋とは比べものにならないとか」 【パトリツィア】 「現地の女性は、顔を出して表を歩くことはできません。 家の中でも、女性のみの暮らす限られた場所で過ごします」 【パトリツィア】 「もちろん、西洋婦人は西洋婦人として扱われます。 社交場に出入りされる方などは 淑女の扱いにも慣れているでしょう」 【パトリツィア】 「けれども、女性というものへの認識の差はあるはずです。 ……男性は四人まで妻を持つことが許される。 それだけでも私たちには想像もつかないことでしょう」 【アレクシア】 「…………」 かの国の、女性に対する考え方の根本的な違い。 これも、男性たちの決して口にしなかったことだった。 そして、あのアナトリアから来た男性―― スィナンという人を思い出す。 【アレクシア】 (どこか……これまで会ったことのないような方だった) 外務省の役人ではあるのだろうが、 普段から国外の人間に接してはいないのか。 あの肌を射すような違和感、 異質なものを見る目はそのせいかと思っていた。 ……今、パトリツィアから話を聞くまでは。 【アレクシア】 「うまく……やれるといいのですが」 【パトリツィア】 「殿下?」 【アレクシア】 「ヴュルテンベルクへ戻って以来、 外の方とのお付き合いもほとんどないのです。 鄙びた女と思われるのでは」 【パトリツィア】 「なにをおっしゃいます。アレクシア様」 珍しく名を呼ばれて目を上げると、 自信ありげに言う夫人の顔がそこにある。 【パトリツィア】 「殿下はどこへいらしても恥ずかしくない方ですわ。 わたくしが保証いたします」 【パトリツィア】 「最新のマナーもよくご存じですし、 何より知識欲がありますから。 どなたとお話されても困ることはないでしょう」 【アレクシア】 「それは……あなたがこうして来て下さるからです。 でなければ、本当にただの世間知らずでしょう」 【パトリツィア】 「お喋りも役に立つなら何よりです。 ご恩返しをしようにも、そのくらいしかできませんもの」 恩という言い方には抵抗があるが、 朗らかに微笑む夫人に自分を卑下する様子はない。 だからこそ、黙って頷いた。 エリとはまた異なるが、 彼女も少しだけ人とは違う道を選んだ女性だった。 ……それは、パトリツィアが イギリス人の男性と出会い、結ばれたことから始まった。 四年ほど前、彼女の夫はスパイの容疑をかけられ、 ドイツ領内に留まることができなくなっている。 彼の外交官という職業が何よりの原因だった。 嫌疑を晴らすことは難しく、 パトリツィアは今も夫に一方的に離縁されている。 【アレクシア】 (……けど、それは夫人を守るためだったのだわ) パトリツィアは「厄介になったのでしょう」と笑っていたが、 話を聞く限り、そうは思わない。 彼は愛した人を巻き込むことを望まなかった。 だからこそ自ら距離を置いたのだろう。 【パトリツィア】 「殿下が発たれたら、わたくしもドイツを離れるつもりです」 【アレクシア】 「そんな……そうなのですか?」 【パトリツィア】 「元からそのつもりでいたのです。 わたくしは殿下に拾われたようなものですし。 本来、歓迎されるような人間ではありませんもの」 【アレクシア】 「そんな風に言われては困ります。 私の我が儘で来ていただいたようなものなのに」 【パトリツィア】 「そう言っていただけるだけでも有難いことですわ。 この身がお役に立てたなら何よりです」 【アレクシア】 「…………」 引き留めることが難しいのはわかっていた。 本来、彼女は一所に留まるような人ではないのだろう。 【アレクシア】 「……今回。あなたがいなければ 私は本当に無知のままアナトリアへ向かうことになったでしょう」 【アレクシア】 「心構えができるのも、これほど冷静でいられるのも…… あなたがいてくれたからだと思います」 彼女の夫は、間諜の疑いをかけられるだけあって 辣腕で知られた外交官だった。 パトリツィアが、各国の情勢や社交界の噂に交え、 外交のなんたるかを端々に聞かせてくれたのは いま思えば何よりの糧だった。 【パトリツィア】 「殿下が落ち着かれたら、わたくしも一度顔を出しますわ」 【アレクシア】 「本当ですか」 【パトリツィア】 「元々根無し草ですもの。 アナトリアには行ったことがありませんし」 【アレクシア】 「訪ねてきてください。ぜひ」 【パトリツィア】 「ええ」 その頼もしさに似つかわしくないほど繊細な両手が、 アレクシアの手を包み込む。 【パトリツィア】 「……どうか、お健やかでいらしてください。 殿下ならきっと皆様の期待を裏切ることはないでしょう」